ざざあん

 

 デュエル・アカデミア島の白灯台の下で、丸藤亮は耳を澄ませた。太陽の恵みを受けてきらきらと輝く波間の端が、コンクリートに打ち寄せて、ばしゃあと音を立てて砕かれ、泡になる。亮の足元へ打ち寄り、また離れていく海は、亮を気にかけることなくそれを繰り返す。置いて行かれるようなさみしさが亮をずぶぬれにする。

 

 ざざあん

 

 亮は目を閉じる。

 

 波のあいだに消えた友のことを思い出す。

 

 


 天上院吹雪が死んだ。
 卒業後間もなくのことだった。
 プロデュエリストとしてのデビュー戦を前に、いまだ療養中の身である亮と、3年生に進級した藤原に会うために、デュエル・アカデミア島へ向かう途上、海難事故にあったのだ。
 吹雪が乗っていたのはアカデミア島に食糧を運び込む船で、吹雪の他の乗組員は船長ひとりだった。船長は間もなくアカデミア島の砂浜に運良く流れ着いていたのを発見され無事が確認された。
 だが、吹雪は見つからなかった。
 誰にも見つけられなかった。
 今もなお。

 

 


「吹雪さん、亡くなったんだってな」

 

 吹雪が事故に遭って1週間後、遊城十代が灯台に現れた。

 

 恐らくは。亮は、その時はまだ、頭のどこかで吹雪が生きているのではと思っていたのだ。己を使いこんでははた迷惑な騒ぎを巻き起こし、亮や藤原、妹の明日香を困らせたあの男は、してやったりの顔をして、気付かれないとでも思っているのやら、亮の背後に忍び寄り、にんまり笑って、引っかかったね亮、と亮の肩に手を置いていくような気がしていた。
 だが、亮の前に卒業してどこへやらに旅立った筈の十代が現れた時、吹雪の死を口にした時、亮は分かってしまった。吹雪が本当に死んでしまったのだと、分かってしまった。ちっぽけな少年のように寂しげに翳った十代の瞳はすべてを知っていた。

 

今になって理解した気がする。十代、お前が再び異世界に向かおうとした時の気持ちを」

 

 十代は海をみつめていた。かれはもしかしたら、このような形で近しいひとを失うのを初めて経験したのかもしれなかった。彼はかつてデュエルで吹雪を闇から取り戻したが、今度ばかりはどんな手を使っても吹雪を取り戻すことはできない。

 

友が、この世界とは違う場所にいるのならば、俺も友を救い出そうとしただろう」

 

 例え、己の身に降りかかるすべてを振り払ってでも。

 くっ、と咳をするように十代が笑い声を吐きだす。亮を向いて、髪色と同じ茶の色の双眸を細めて、笑う。

 

「そこまで分かってるならカイザー、アンタは俺と同じモノになるんじゃないぜ」

 

 十代がくるりと背を向ける。そして、来た時と同じように、十字架か何かのような赤いショルダーバックを担いで去っていった。

 

 


「お前と顔を合わせるのも随分久し振りな気がするよ、丸藤」

 

 秋、海がさわやかな光を翳らせる頃、藤原優介が灯台にやってきた。

 

「寮に閉じこもって机に向かってばかりいれば、そうもなるだろう」
「実際、吹雪の葬式でアカデミア島を出なきゃならない時にお前の所に顔出して以来、会ってないしね必死なんだ。自分で言うのも何だけど」

 

 亮は本土で行われた吹雪の葬式に出席していない。当時の亮はまだ島を出ることはおろか、今のように一人で出歩くこともままならなかった。例え回復していたとしても、記憶の中と同じ笑顔で笑う吹雪の遺影と、遺体のない棺に向き合えるかどうか分からなかった。
 ただ、吹雪の死後、一度藤原と顔を合わせたときも、今も、藤原が平静を保っていることに亮は少なからず驚いていた。亮の記憶では、吹雪に最も依存していたのは藤原だった筈だ。天才と呼ばれはしても情緒的には不安定だった藤原を友と呼んで垣根なく接したのはまず吹雪であったし、ダークネスに身を堕としてもなお、藤原の執着は吹雪にあったと聞く。

 

「俺、ちゃんとアカデミアを卒業するよ。お前たちより遅れた分、追いつけるぐらいに精一杯努力する。プロになるかどうかはまだ分からないけど、ちゃんと社会に出て、胸を張ってやっていくよ。そうじゃなきゃ、吹雪に叱られるよ」

 

 真実、藤原は吹雪に救われたのだ。吹雪の説いた友情が藤原をここに繋ぎとめ、藤原を未来へと向かわせている。吹雪の守りたかった絆は、吹雪が失われてなお、生きているのだ。つめたくなった風が藤原の髪を躍らせる。藤原は海を見つめている。まっすぐに。

 

「俺はもう、逃げないよ。丸藤」

 

 藤原が、軽やかな靴音を響かせて去っていく。寮に戻って、またため息が出るようなひたむきで机に向かうのだろう。

 

 


「久しぶりね、亮」

 

 その年の終わり、デュエル・アカデミア島の生徒の数が大分減った頃、天上院明日香が灯台を訪れた。

 明日香は、ここで亮と最も多くの時間を共にした人間だった。おそらくは、吹雪よりも多くの時間を。もっとも、明日香と亮の目的は、行方不明になった吹雪の情報を交換すること、また亮にとっては、兄である吹雪を失った明日香を慰めることだったが。
 また、明日香は吹雪の事故以来何度かここを訪れていた。アメリカ・アカデミアに在学する身にも関わらず、である。どうやら明日香は、日本に一時帰国するたびにここを訪ねているらしい。

 

「調子はどうだ、明日香」
「悩んでることがない、とは言えないわ。でも、どうにかやっていってる。亮、アナタは」

 

 変わらないのね、と明日香が言う。変わる、とそう自分で口に出してみると、どうにも空虚な響きがした。デュエル・アカデミアに、明日香がいて、吹雪がいたころ。自分が目指した最高の輝き、その後の燃えかすのようだった自分を奮い立たせようとした弟、翔。あの時、あの瞬間の気持ちを、亮は思い出せずにいる。

 

亮、私、伝えたいことがあるの」

 

 吹雪という存在の本当の消失を、最も苦しみ抱え込んだのは明日香であったろう。かつて、行方不明となった吹雪を探すために単身デュエル・アカデミアにやってきた彼女が、見た目よりもずっとかよわくやわらかい殻で覆われただけの少女であることを亮はよく知っていた。彼女の仲間たちと同じように、少女からおとなになった明日香の瞳はだが、もう濡れてはいなかった。

 

「私、もうここへは来ないわ。いいえ、来ちゃいけないと思うの」

 

 亮、あなたもと明日香は続けた。「亮分かって、貴方もここにいちゃいけない。兄さんは、もう帰ってこないのよ

 

 ざざあん、と波が聞こえる。

 

 明日香の声が聞こえる。明日香の声を掻き消すように、白い泡が、音を立てて、砕けて、消える。亮を置き去りにする。声が遠くなる。あきらめた明日香が灯台を遠ざかっていくのか、そうでないのかは、分からなかった。亮の前に海がある。吹雪の消えた海がある。寒々しい色をしたそれが、吹雪を連れて行き、亮をさみしさの中に置き去りにしていく。
 ふいに、亮はすっくと右手を宙に浮かした。水平線に向かって突き出した手は、冬の海の残像だけを掴む。冷たい、と感じた。空っぽな右手がひどく凍えていた。


「吹雪」

 

 亮はかつて、この島で得た全てを捨てようとした筈だった。
 あのおぞましく、たまらなく脳幹を刺激する地下デュエルの世界でヘルカイザーの名を冠してから、ジェネックス開催中のこの島を訪れ、吹雪や翔を相手に過酷なデュエルを仕掛けてから、永遠となるべき瞬間を求め続け、遂にその瞬間を手に入れるまでだが、亮はその輝きを尽くしてなお生き長らえた。
 それは、あの瞬間の輝きのために全てを捨ててなお、亮の中に残ったものがあったからではないか。

 

吹雪っ」

 

 亮には、吹雪という友との時間があった。
 その時間が、あの最高の一瞬にも等しいものだと知った。
 その時間の消失が、あの一瞬を越えてなお生きなければならない亮にとって、かけがえのないものを欠いたのだと知った。

 

 未来などいらないと思っていた。
 それでも、亮は未来を夢見ていた。

 

ふぶきぃっ!」

 

 吹雪という友がいる未来が、亮の思い描いた未来だった。

 

 ざざあん、

 

 と、波がくる。

 

 ざざあん、

 

 と、波は、さみしさは、亮をずぶぬれにする。

 

 あふれでる涙だけが温度をもち、

 

 くずれおちた体は頭から灰色の海に落ちていき、

 

 亮をさらっていった。

 

 

 

「亮!」

 

 

 

 亮を呼んだ声はだれのものか分からなかったが、

 

 亮の右手が掴んだものがあった。

 

 それは

 

 

 

 

 


成程、以来丸藤氏は左手のみを使う隻碗のデュエリストとなったわけですね?」

 

 丸眼鏡の女性記者の言葉に、丸藤亮は深く首肯した。かりかりと鉛筆を動かしながら、記者は取材相手を観察する『カイザー』、丸藤亮。神秘に包まれたサイバー流を操るプロデュエリストだが、その半生もまた謎に包まれている。エド・フェニックスに敗北してからのブランクから、地獄の帝王ヘルカイザーとしての復活、プロデュエル界からの突然の失踪やがて実弟・丸藤翔と新リーグを立ち上げるまで、彼が如何様に活動していたのか、これまで知られることはなかった。過去を隠しているわけではないのは、彼の刹那的で気まぐれな面を感じ取ったことからも否定できる。自分に自らの経験を話したのは、単なる気まぐれなのだろう、と女性記者は思った。
 丸藤亮はデュエルにおいて右手を用いない。デュエルディスクをセットするのは右腕だが、カードを引くのも、手札を持つのも左手だ。元々は右利きだったと語っていたが、見た所私生活でも左を主に用いているようだ。取材に答えている間、丸藤亮の右手は地震の左手に包みこまれるようにして膝の上に置かれていた。時折、自分の手を愛おしげに撫でる様子は、まるで恋人の手にするようだ、と記者は思った。

 

「この手は俺の手であって俺の手ではない」

 

 泡に沈んだなかで丸藤亮は、死んだ友を見たと言う。波のあいだに消えた友がこの手を握ったのだと。

 

「友が手を伸ばすならば、握ってやる手が必要だろう?」

 

 だからこの手は空けておいてやっているのだ、と彼は笑った。記者は思う。これは、彼にとって必要なことなのだ。左手でカードを手繰り、右手を亡き友とつなぐ絆とすることが。それが彼が未来へ向かうために必要なことだったのだ、と。

 

天上院吹雪の消失

11/10/25