その子どもは私をドクターと呼ぶ。ドクター、お膝に乗せて。ドクター、こっち向いて。ドクター、ドクター、ドクター。その子どもの喉は私以外の名前を知らないし、その子どもの睛は私以外を映さない。真円の月、潰れた赤い月。
「ドクター、ドクター。僕、お紅茶が飲みたいな」
子どもはこの部屋の天井を眺めるのが好きだ。私の膝の上で、天井と一緒くたにして私を見上げ、しな垂れる。私は手元のパネルを操作し、珈琲を一杯、それからミルクティーを一杯手配する。子どもは光子の天井をベッドメリーか何かと思っていて、ぱたぱたと足をばたつかせながら飽きもせずに光子のはしる天上をみつめている。子どものひとつきりの目だまの上で、子どものみっつの太陽をたたえる空は回り、星が、星が、星が、その子どもを慰める。子どもの首が不可思議な法則性をもって右に、左にゆれる毎、子どもの垂らすわかくさ色のヴェールが小波む。
その子どもを傍に置くようになって、【あれ】が珈琲よりもティーを好んでいたことを思い出した。それも、カップにミルクを半分と、角砂糖を三つ落した、ロイヤル・ミルク・ティー。あれの息子が給仕役を務めるようになってから、気付いたことだ。それから、何故あれが給仕をするときは2人分の珈琲を煎れるのだと聞いたことを思い出した。あれが、照れ臭げに笑いながら、君と同じものになれる気がするんだよ、と。君と同じものを口にして、君と同じものを見て、そうしたら。そう、口ずさむように言ったのを、思い出した。
オボットが2人分のカップを乗せたトレイを運んでくる。子どもは手を叩いて喜んで、「ドクター、はやく頂戴、ドクター」とカップをせがむ。私は子どもからトレイを取り上げて、子どものためにピッチャーからミルクを注ぐ。あらかじめ3分の2だけ飴色の溶けたカップが満たされて、カップはようやく、子どもに与えるにふさわしい温度になる。それから私は、カップに角砂糖をみっつ落とした。
「温くはないか?」
「だいじょうぶ」
よくかき混ぜたあと、カップを渡す。ちっぽけな両手がカップを掴む。それから私は自分の分のカップを手に取った。子どものためのミルクティー。子どもは包み込むようにそれを持ち、ふうふうとしてから口に含む。ほのかな湯気が子どもの吐息に吹かれてななめに飛んだ。
「だいじょうぶだよ、ドクター」
子どもは天使のように笑う。
「…う…」
子どもが天上の座に座っている。子どものためにぴったりと設えた椅子に、子どもは恍惚とした心地でいる。子どもはコードに繋がれることをいやと言わなかった。光子が身の内をかけ回り、子どもの中に眠るバリアンを絶え間なく刺激しようとも、子どもはいやがらず、むしろ、喜んでそれを迎え入れた。「いい子だ」と私が言うとその子は脳幹をふるわせて笑う、「はい、ドクター。」
「…ドクター…ドクター」
コードが抜ける、その子に突き刺した鉄線が抜ける、その毎、子どもは私を呼ぶ。手を伸ばす。小さな指のさきがふるえて、私を求める。
私は子どもを抱きしめた。子どももまた、私の背を抱く。私は子どもの小さなからだを割り開き、求めるものを与えてやる。子どものからだを揺らすたび、子どもの貌を覆う若草のつるがゆれ動き、子どもの両睛をかくす。子どもは私を呼ぶ、ドクター、ドクター、ドクター、ドクター、ドクター、…ドクター。
「…許さんぞ、絶対に、ゆるさない、私を裏切ったお前を、絶対に許すものか。死ね。死ね。死ね。界の狭間、えいえんの闇に突き落としてやる。殺す殺すころすころすフェイカー私は、お前を、」
私を受け入れるそのときだけ、バイロン・アークライトはめざめる。バイロンは私にしがみつき、小さな孔で私のものを締めつけながら、私を呼ぶ。私を呪う。バイロン、お前が呪ったところで、お前の復讐はとっくに終わってしまったよ、お前の息子たちは私がお前の目の前で引き裂いてしまったよ。
「怨む」
子どもは泣く、泣いて私の吐きだしたものを受け止める、笑いながら、笑いながら。子どもの腕は私の背を抱き、子どもの足は私の腰をつかまえる。私は逃れるすべなく全てを吐きだす。いい子だ。私が言うと、子どもはやわらかに、天使のように笑うのだ。はい、ドクター。
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