「おゆるし下さい、兄さま」
VがWの前で泣いたことがある。遠征先で不幸にも飛行機事故に遭って、辛くも生還を果たし病院のベッドに横たわるWをVが訪ねにきたときのことだ。病室のドアを開け、包帯をぐるぐるまきにしたWを見てVはその場にくずおれた。あわてたWが病み上がりのからだでベッドを立ってVVを助け起こすと、Vは大粒の涙をぽろぽろと零し、しゃっくりあげながらWに言ったのだった。
「僕は復讐を果たすことより、兄さまを、兄さまたちを失うことのほうがこわいです」
Wが泣く。ほうせきのような雫が床を打つ。Wはなきむしの弟の頭をがしがしと撫でてやった。兄ができるようにやさしくはなかったが、Vはゆっくり面をあげた。泣きはらしたエメラルドのひとみが笑みのかたちに細まって、Wをみた。
「わらってくれましたね、W兄さま」
昔の兄さまみたい、とVが言ったとき、Wは自分がどんな表情をしているのかわからなかったのである。
意識が戻ったときWがいたのはあの美術館ではなかった。辺りを見回す前に、なんとなく、あたらしい拠点としたホテルの一室だろうと察する。トロンの力であの場から退避させられたのだ…Wはまだぼんやりとした頭で考えていた。すると、Wの眼前の空間に隙間のようなものが生まれた。
「X…」
銀河が垣間見えるような幾次元かの隙間からあらわれたのはXだった。くらやみの中でかれのながい銀糸がゆるく波打ち、銀河の裂け目が閉じると同時にXは小波一つなく最初からそこにいたかのように佇んでいた。
「…敗北したか。」
Xが淡々とした声で言った。ひどいなりだ。Xがそう嘯くくらいにWは傷ついていた。兄が上から下まであつらえた服はダメージを受けた衝撃で擦りきれそうになってしまったところがあるし、ほころびもいくつかできていた。ほんとうに、久方ぶりの敗北だった。それをWにもたらした餓鬼どもを思うとからだの奥から沸々と湧き上がるものがあったが、今だけはそれも別の人間の中で起っていることのように思えた。…みつめるX。
カツン、カツン、と、靴音が鳴る。Xがあるきだす。Wに向かって…「Vもひどいものだった。無理をするなとお前には言い聞かせたはずだが」。カツン。カツン。カ、ツン。「紋章の力がなければ、お前たちは彼に本当に魂を奪われていたぞ」
兄の靴音をWは審判のようにきいていた。神が罪人に振り下ろす木づちのおと。兄の足裏と足元のせかいが打ち合って響かせるおとは、Wの耳と言わず、足先から、旋毛まで、Wの中に響いてくる。Wのなかになにか力を通してWを真っ直ぐに立たせる。
Wは判決のことばを待っていた。Xの足音が止んだ。Xは、くちをひらいた。
「W。迂闊な真似をしてお前自身とVを危険にさらしたお前には…罰が必要だな」
そうだな?とXは言った。神は罪人のつみの自認をもとめた。Wは面を上げた。それが兄の意に沿う答えだった。
くちびるを合わせるまでの数瞬、Wのひとみはスローモーションのように克明にXのかおを映した。Xの表情。すうと鼻筋の通った、白磁のように真白な、ひびわれひとつない、X。インクルージョンなんてある筈もないふたつのサファイアを埋め込んだひとみがWをみる。Wを映す。Wのちだまりのような目をみつめる…。Xの、表情。なにもうつさない。ただ、罰を執行するものの、仮面のようなXの素顔。
兄のくちづけを受けながらWはVのことばを思い出していた。僕は復讐よりもX兄さまとW兄さまに昔のように笑ってほしい。そうVは言った。けれどWは思い出せなかったのだ。Xはどんな風に笑っていただろう。…そしてW自身は。
WはXの笑みを思い出せなかった。Vが取り戻したがっているこころやさしい兄としてのXの笑顔。自分たちを繋げているものは天から垂らされる糸のように頼りなく無慈悲なものだと思う。Vの糸はVの記憶が繋げている。Vが泣きだすほど必死になって守りたがっている、笑い合う家族の記憶。Wが思い出せない家族のきおく。
だからWはこうやって繋がっていたかった。記憶がなければこうしているしかないのだ。兄とつながるためには…。唇と唇を引きつけ合い、舌と舌を縺れさせ、唾液を啜り上げられたかった。Wの咥内のたまりを掬いあげて、Xの中にすっかり取り込まれてしまいたかった。…そうでなければ、糸はWの手からえいえんに逃れてしまう。
ふかいキスと一緒にWはだきしめたXの背中の生地をギュッと引き寄せた。どうか罰を与えてくれ。おれたちの復讐が終わるまでオレをどうかこうやって繋げていて。…復讐しなければならない。それを果たしたときオレはきっとやっと終われる。その時はこの糸を繋ぎとめるさきも繋ぎとめたさきももういないのだ。この痛みをやっと手放せるのだ。キスがおわるころ、Wはゆめみるようにゆるく目を開ける。ほうせきのようなVの涙がちらちらと瞼に浮かんでいた。
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