「おかえりなさい、兄さま」

 

 

 

弟がそう、自分を出迎えたことに驚いた。おれは眠れないからここにやってきただけなのに。兄と自分、自分と弟、兄弟が憩う、暖炉の部屋。部屋中をぬくもりで包むよう煌々と焔を灯すそれにちなんで、子どもたちがそう呼ぶ部屋に、兄と弟がいた。瞼を閉ざすおおいなる宵闇は、もうふたりのうちのどちらにも訪れているであろうに。
弟はソファの上で色とりどりのクッションに埋まっている。その中に、自分のお気に入りのきいろのクッションがあるのに気付いて、こいつ、と思う。取り上げてやろうか、と意地悪な心がひっそり顔を出したが、ちいさな弟が幸せそうにパステルのクッションをいっしょくたに抱きしめているから、肩をすくめてしまった。すこし視線を巡らすと、兄がいる。おきにいりの窓際に、デスクを置いて、なにかかきものをしている。兄の万年筆の先がひらめくように踊るのを見ていると、いつの間にか兄がこちらを見ていた。もしかしたら、その前から兄は自分を見ていたのかもしれなかった。兄の青の両目と自分の赤いそれをきっかりかち合わせると、兄は「おかえり」と言った。


どうしたことだろう。兄までが自分におかえりと言う。おれはどこかへ出かけていたのだろうか?と思う。兄と弟が揃って帰りをまつような、どこか遠くへ。そして、帰ってきた、という自覚もまた、なかった。ほんとうに、おれは帰ってきたのだろうか。…俺はまだ、どこにも帰りついてはいない。そんな気がした。


カタンと音がした。兄が万年筆を置き、書きかけの羊皮紙をそのままにして席を立つ。ここから見えるその紙の表面は、筆跡も、空白も、きんの縁取りも、やけにぴかぴかと光を放って見えて、りっぱだった。「いいの、兄さん」兄の背になったにまいの手紙に、おそれるようにそう言うと、兄は微笑む。「いいんだ。この手紙の続きは、もう、いつだって書けるから、ね。」

 

 

 

「さあ、この屋敷の人形たちの一番のお友達、父さまの自慢の二番目、私の上の弟。どうしておまえは泣いているんだ、兄さんに教えておくれ。」

 

 

 

兄が言う。兄が言って、おれの頬を伝う涙をさらう。おれは泣いていた。どうしておれは泣いていたんだろう。どうして俺は、まだ帰れないんだろう。俺は涙の滲みをごしごしと擦って、兄に答えた。

 

 

 

「眠れないんだ」

 

 

 

俺が言う。兄がおれを見ている。弟もだ。おれは涙がやまない。兄は「どうして」とまた、聞いた。

 

 

 

「人形が…」

 

 

 

おれの手の中に人形があった。涙を拭う手と反対の手に、おれはひとりの人形の腕を握っていた。おれは小さな手で、ちっぽけな手で、彼女の腕を強く、強く、握りしめていた。

 

 

 

「人形、こわしちゃった。おれが、乱暴にしたから。だいにじ、しなかったから。
 …大切にしなきゃいけなかったのに。」

 

 

 

おれはそう、泣く。おれの手の中におさめた人形は、かわいそうなくらいに、ぼろぼろだった。顔の生地はほころびてくしゃくしゃで、ボタンでできた目の片方はどこかでなくしてしまった。繋ぐさきのない糸が、その不在を訴えていた。手入れをわすれてぐしゃりとなったあおいろの髪が、腰まで伸びていて、それで、その人形が少女を象ったものだということがかろうじて分かるくらいだった。
「貸してごらん」と兄が言う。おれはおびえながら、少女を兄の手に渡す。兄のしろい指がやさしく少女を抱き上げる。おれは兄を見て、「直るかな」と言った。涙はぜんぜんやまなくて、声はずっと、震えていた。

 

 

 

 


「直りますよ」

 

 

 

 

 

ねえ、兄さま。答えたのは兄ではなくて弟だった。ソファを下りた弟が、ぺたぺたと足音を立てて、おれの元へやってくる。弟は、まんまるの、光をうんと取り込んだ、みどりの目をして言う。

 

 

 

「直りますよ、ぜったい。顔の生地をはり直して、目をちゃんと見えるようにしてあげて、髪を梳かしましょう。服もちゃんと着せてあげて、それから、寝かせてあげましょう。ぼくたちのベッドで、いっしょに。そうしたら、だいじょうぶです、もう大丈夫です。ね、そうしてあげましょう?」

 

 

 

弟がそう言う。
兄が頷く。

 

おれも、また、兄と同じように頷いた。そして、ふたりにいちど背を向けて、ソファへ行く。そこから、お気に入りの、きいろのクッションを取る。それをぎゅっと抱きしめて、振り返る。

兄と弟が、俺を待っていた。おれはだいじに抱きしめたクッションを、おしつけた胸から離して、掲げる。

 

 

 

 

 

「これ、そいつを直すのに、使ってやりたい」

 

 

 

 

 

兄は、弟は、微笑む。兄は弟は、それぞれ、片手を掲げて、俺を抱きとめた。ふたりがひとりでそうするようにして。おれはふたりの両手の中に迎え入れられる。…ただいま、と俺は言った。

 

 

 

 

 

 

「兄さま。兄さまのお人形が直ったら、僕のお人形といっしょに遊びましょう」
「おい、おまえ、人形なんて持ってたのか?」
「はい。ついこの前、もらったんですよ。たいせつなお人形です。僕の最初の、友達です」
「ふふ、よかったね、二人とも。今度は、大切にするんだよ?」
「わかってるよ、兄貴。」

 

 

 

今日は久しぶりに三人で眠ろう、ひとつのベッドで、三人で横になろう。俺の胸に、人形を抱いて、ごめんなさい、と祈りのように呟いて、やすらかな眠りの中で、帰りを待とう。おれたちの父の、帰りを待とう。この眠りから覚めたとき、青い目のお人形はおれを許してくれるだろうか。今度は間違いなくカードを選ぼう、間違いなく愛おしもう。この眠りから覚めたとき、これまでより少しだけ優しい世界が待っているよう、あまい祈りを抱きながら、俺は目を閉じる。おやすみ。

 

キス・ミー・ベイビー、セイ、グッナイ

12/06/05