姉がマネキン人形になっていた。

 

 

 

真っ暗なリビングに姉が横たわっていた。弟がつけた玄関の明かりが姉の裸体のシルエットを浮かび上がらせた。扉枠に沿って台形に切り取られたフローリングに、姉のぎんいろの髪が、房ごとぽてりぽてりと落ちていた。むかし俺が(俺が卒園してからは弟が)なまえを張り付けて使っていたちゃちな工作用のはさみが姉の髪をばらばらに切りみだした。うつくしかった姉はへたなオブジェのようにされて、ところどころはげができ、白い頭皮が覗いていた。弟が叫ぶ。ねえさま。俺は姉を助け起こした。さんざ乱れた着衣で、下肢は完全に剥き出しにされ、股からあふれるだれかの子種と彼女の体液をねっとりとさせて。姉はマネキンのようだった。温度だとか。感情だとか。およそ、人として愛されるべき部位をなくしたかのような。姉はうっすらと目を開けた。そして、

 

 

 

 

 


嫌な夢を見た。

 

スマートフォンのアラームをワンスライドで消して、それから枕に突っ伏す。嫌な夢を見た。喉の奥でどす黒いものががらがらと渦をまき、俺はたちあがりキャビネットの中のドールを一体掴みだす。
俺はわけのわからぬ嗚咽を垂れながらパステルピンクカラの彼女の髪をひきちぎる。ぶちぶちと彼女のつくりものの頭皮から毛がいっぽんいっぽん抜かれて行く。おれは嗚咽を漏らす。彼女のたわわの髪の房がいくつか失われてはげができたときやっと吐き気は止んで、俺はドールとその髪の毛の、両方をつかむ手をひといきにゴミ箱に突っ込む。俺はぱっと手を離して彼女を葬る。パステルピンクの愛らしい、ビスクドール。
ピピピと目ざましがまた鳴っていた。スヌーズ。俺は幾分おちついた心地で枕元に放ったスマートフォンをとってもう一スライドした。姉の声がする。朝食だよ。俺はこみあげるドロリとした感情ごとすてたビスクドールを置いて部屋をでる。弟がおなじように起き出す気配がする。あの感情を、怒りと言うのだとおれは知っていた。

 

 

 

 


「おはようございます、姉さま」

 

俺と並んで階段を下りてきた弟が、姉の後ろ姿に声をかける。姉はふりかえり、柔くしなやかな笑みを浮かべて「おはよう、二人とも」と返事をする。俺と弟へ向いた姉の耳元で、きりそろえた銀色の髪が揺れて、そのひと筋ひと筋が、ゆれるたび静謐とした音色を奏でるようだった。

 

 

 

「おはようございます。【おはようございます】、トロン」

 

 

 

それから弟は姿勢を低め、さきにテーブルについたもう一人の家族に声をかける。一度目は姉に向けたように自然と、二度目は歌い聞かせるかのように明瞭と。異常に背の高いちいさなイスに腰掛けたその子どもは、さいごに呼ばれた名前に反応を示し、ひとつきりの金色の睛をギョロリとめぐらせて弟を見て、「【おはようございます】」とくり返し、そして笑んだ。俺が同じように子どもに語りかけると、子どもはその通りに言葉を返して笑みを浮かべる。俺の中で黒いぬかるみの残りかすが浮き上がる。俺はそれを呑みこんで、愛らしい子どもの髪房をとった。子どもの長い髪を束ねたみつあみを掬いあげ唇を落とすと、その子はひどくよろこぶ。

 

 

 

 


「今朝、嫌な夢を見たんです」

 

弟が帰り路にそう言ったのを、俺はどこか俯瞰した心地で聞いていた。同じ高校、同じバイト先の俺と弟は、ゆくもかえるも同じだ。ただバイトの時間だけは互いにすこしずつずらしていて、それは姉と姉の子どもだけで家にいる時間を極力減らすためだ。今日のバイトは休み。だから俺と弟はふたり、オレンジの夕べを歩いて過ごしている。ちなみに俺たちのバイト先は、家路からすこし外れた繁華街のど真ん中のファーストフード店だ。
俺がたいらな声で「俺もだ」と言うと弟はおどろいたようだった。弟は、俯いて、自分の真新しい運動靴がじぶんをたしかにわが家へ運んでいることをたしかめて、ぽつりと言葉をおとした。弟は、今年高校一年生になったばかりだ。

 

 

 

「あの日、僕とにいさまが少しでも早く家に帰っていたら」

 

俺は瞬時に答える。

 

「どうにもならないよ」

 

 

 

弟が落した言葉には、俺が自分の部屋のゴミ箱に捨てたものがじゅわりと滲んでいた。俺のよりいくらかあおざめた、後悔、悔悛、そういったもの。弟は俺のように吐き出せてはいない。無意味な言葉に乗せて吐き零すことしかできない。おまえはやさしすぎるのだと俺は言わなかった。

 

 

 

5年前、俺たちの姉はなにものかに強姦された。丁度父親が亡くなってから1年経ったころのことだった。父が亡くなった年高校を卒業した姉は、俺と弟を施設に送る手筈をしていた親戚連中に泣いて頼んだらしい。自分が面倒を見る。父のかわりに弟たちを育てる。だから、これ以上家族を、わたしの家族を、離れ離れにしないでください、と。
姉は大学に通うのを諦めて働き始めた。亡き父の勤め先であった研究施設が姉を事務に雇ってくれた。姉は朝俺と弟を起こして朝食と昼食の準備をし、日の昇っているうちにこまごまとした家のしごとを片付け、俺と弟が学校から帰ってくるのを出迎え、夕食を共にし、俺たちが寝静まるころ家を出て行き、明朝になって帰ってきた。俺は父が死んでから姉が眠りについているさまを見たことがない。問うと姉は「家でやることがすべて終わったら休息を取っているよ」と笑ったが、その一年で姉は随分と痩せた。彼女があの期間に失った肉はいまだ戻らない。

父が亡くなって一年後、姉は何者かに自宅に押し入られ犯された。犯人は5年たった今でも分からず仕舞い。はじめに姉を見つけたのは自宅近くの公園で暗くなるまでぶらんこ遊びだかにあけくれた俺と弟で、リビングに横たわる姉を見て、当然のことながら、俺たちはパニックを起こした。裸の姉を助け起こし、弟と泣き合いながら、どうしよう、どうしよぉ、と呟いていた。どれくらい時がすぎたか、弟はとつぜん立ちあがって電話機にはしった。最初に気付けばいいくせに。弟がかけたのは、緊急時にとあらかじめ教えられていた姉の職場、研究所のナンバー。「姉さまをたすけてください、姉さまが、姉さまがしんじゃう」。死んだような顔をした姉。うらみを連ねたマネキンのように剥がれた頭をころがした。

 

 


相手は刃物を持ち出すような相手だったんだ。おまえと俺が早く帰ったところで何が変わった?刺されて、終りだ、何を考えるひまもなく。【わかれよ】。分かったら、もうそんな下らない空想をするのは止めろ」

 

トロンにするように弟にいいきかせると、弟は、俯いたまま、うなずいた。ただ、弟のうちに渦をまくものがすべて吐き出されたようには到底思えなかった。ごみばこの中のビスクドールが脳裏をよぎる。俺とて同じなのだ。弟になにを言えたものか。

 

 

 

トロンはあの日のあと姉が生んだ子だ。髪も瞳もきょうだいの父譲りの若草いろと金色で、父がまもってくれたのだと俺はひそかに信じている。生まれつき左目が悪く、その目はぜんたいが真赤に充血して、うすいうすい表面層の向こうに赤い海がゆらゆらとたゆたう水槽のよう。ことばを覚えるのも遅く、今でも弟や俺は言い聞かせるようにトロンに語りかけ、その繰り返しをたしかめる。
だが、姉はふかくトロンを愛した。毎朝トロンの髪を梳いてやり、のびる若草を三つに編んで、幾度もくちびるを落す。望まざる授かり方をしたその子に乳をやったときから、姉は元のしなやかさを取り戻しはじめたのだった。何もかも失った姉が、ただ一つ手に入れたのがトロンだったのだ。
それから。事件当時、姉には交際相手がいたらしい。相手は姉のつとめる研究所の若所長で、姉とその男は、俺と弟が成人したら結婚することも考えていたらしい。錯乱状態の弟が研究所に電話をかけたとき、電話口に出たのもその男だった。そして、彼は姉をみつける三人目になった。間もなく、姉はその男と別れたという。

 

 

 

自宅近くの公園の前をとおりがかるころ、話題をかえようとしたのだろう、弟が顔を上げて俺をみる。

 

「兄さま、卒業したらどうなさるんですか」

 

弟が聞くと、俺は伸びをして背をそらした。それから、オレンジの夕日に目を細める。

 

「そうだな働くか。しばらくは今のバイト続けてもいいし」
「じゃあ僕も、そうします」
「ばぁか。大学行けよ、頭良んだから。父さんの研究、続けるんだろ」
うん。」

 

そうだね。と弟が言った。そうだね。俺たちは目を落す。俺たちの並ぶ靴音。わがやへ向かう。

 

 

 

俺は思い出している。マネキンになった姉。つめたい姉を助け起こし、ねえさまねえさまと呼んでいる俺、弟。ねえさま。ねえさま。は、おれの腕の中で「おかえり」と言ったのだ。俺と弟をみて。かすかな微笑みを添えて。

 

 

 

 

 

姉さま?」

 

弟が玄関の明かりをつける。リビングは真っ暗だ。俺と弟は同時に、まっさおになって、リビングに駆け込む。そこに、姉が横たわっている。姉の横たわるシルエットが見える。リビングの電気をつけるのをわすれた。

 

 

 

 

 

姉がマネキン人形になっていた。

 

 

 

 


姉が横たわっている。そのうえに子どもが立っている。よく知る子ども。うらめしい男の子種と姉の胎で生まれた子ども。


トロン。


みつあみを解き、おそろしく長い若草いろの髪をした子ども。

 

 

 

「姉、さ ま゛ッ」

 

 

 

弟が姉を呼んだ 気 がした。弟はいつのまにか姉のからだに駆け寄っていて、そして、崩れ落ちていた。弟の悲鳴がきこえる。たましいを握り潰されるような。弟が身のうちに蓄えた黒々しい感情をまるごと食べてしまうような。それは。よりふかい泥濘。より泥濘を有するにふさわしいからっぽの器。
トロンが手を伸ばしていた。弟をくびり殺した手を。俺に。床に散らばるのは銀の房ではなくて、黒く鬱蒼としたなにか。それは、姉のようにやさしく俺の手を引いて、その首を、トロンの手に収まらせる。涙がこぼれた。「ゆ」トロンの蝶の幼虫のようなちいさくみじかい十本の指。「ゆ、る、し、て」

 

 

 

 

 

 

「アハッハハはハッふふっ
 だぁーーーーーーーーーーめぇっっっ!!!!アハハッアハッヒィッハハハハハハハッ!!!!」

 

 

 

 

 

 

つぎの瞬間、わがやに人間はいなくなった。子どもはマネキンをずしゃりと床に落として横たわる母に折りかさなる。母がながいながい間零しおとしてきた黒いしずくは、少年の中で血となり、肉となり、やがて少年そのものとなったのである。少年はからっぽだった。純なる黒の感情が少年だった。少年は母に笑う。かれの中に愛は存在しない。少年はその母と同じものである。

 

 

 

 

 

「次は、誰に教えてあげようかねぇ、母さま?」

 

 

 

 

 

怒りのひ。

 

マネキン人間

12/07/16