「Ⅲ、君は心配しなくていい。Ⅳの、いつもの『発作』だ」
Ⅴが言うところのⅣの発作をはじめて目にしたⅢはⅤの腕に抱かれているのが自分のもうひとりの兄だとわからなかった。それは雨がひどく窓に打ちつける夕べのことで、Ⅲは午後の茶会の時間を過ぎても戻らないⅣを心配していた。長兄のⅤはというとそのような素振りはなく、平然と手元の本に目を落としているので、Ⅲも落ち着かない心地のまま窓の外をみつめているしかなかった。降りしきる雨が、鐘のようにがんがんとうるさく鳴っていた。
ふいに、扉が開いた。Ⅲは反射的に席から立ち上がり、待ち人のあらわれるのを待った。だが、ひとつ違和感を覚えた。後ろ手にばたん、と扉を閉めて、Ⅲたちに歩み寄るのは確かにⅢの兄であるⅣだったが、その足取りは驚くほどおぼつかなかった。雨のつぶてをまともに受けてずぶぬれになった肢体は、こごえたため、と説明がつかないくらいにがたがたと震えていた。いよいよⅢがⅣの異変に気付いたとき、俯き、ぽたぽたと金と赤のツートーンから雫を垂らす彼のかんばせが、Ⅲたちの前にやっと姿をあらわした。
「め、」
Ⅳの発した吐息のような一音節が、彼の右目を指すものだと気づくのに数瞬が要った。ひゅうひゅうといやな呼吸音をさせる胸をおさえるかれのてのひらがゆっくりと動いて、守るように右目を覆う。過剰な息の循環をくりかえす隙間に、Ⅳはふるえる声で呟いた。
「めが、みえない」
その瞬間、Ⅳがその場に崩れ落ちた。
そして、同時にⅤがそのくずおれるⅣを支えたのを、Ⅲは瞬時に気付けなかった。
Ⅳの全身をすっぽりと包みこむようにその腕に受け止めたⅤは、いつものⅣの相手をするときのような剣呑さはまるで見てとれず、またⅢと対照的に極めて冷静だった。Ⅳはというと、過呼吸を起こしているのだろうか、ひゅーっ、ひゅ、ひゅーぅ、と不規則な呼吸をくりかえし、その間を埋めるようにむりに口を動かした。その右手はずっとおなじものを覆っていて、Ⅳは、あの古傷に、眼球から右頬まで届く古キズを受けた右目に何らかの異変を起こしているのだと気づいた。
「Ⅳ、落ち着け。落ち着いて息をしろ」
「目、目が、みえねぇんだよ、ひ、ぃっ、く、あ、ひぃい、血が、血、血、とまらない、真っ赤だ、ち、が、止まらねぇよ、たすけて、たすけてくれ、よ、ぅっく!」
「気を確かに持て、Ⅳ。もう血は出ていない」
「…ひぃ、あ、…?」
「私が見えるな、Ⅳ」
…ブイ、と、喉の奥からひゅーひゅーと言わせるⅣがやっとのことでそう呟く。「そうだ」と長兄は言った。兄が弟に、と言うより、Ⅲの知らない、父が幼子を諭すような、あたたかな声だった。
タオルを持ってきてくれないか、とⅤが言った。それが、Ⅲに向けられた言葉だと自覚するのにまた、時間がかかった。Ⅲは慌てて足早に踵を返す。気付けば、ずぶぬれになったⅤの腕の中で、ひゅーひゅーという呼吸は規則的なそれに戻りつつあった。
『雨』がⅣの心的外傷(トラウマ)のスイッチらしかった。ⅤはⅣがそのキズを負った経緯までは言及しなかったが、そのたったひとつのスイッチ、それが入ってしまったとき、ⅣはⅣでなくなるのだった。ぜぇぜぇと苦しい息をして、無防備にふるえているⅣの姿を見た時、弟を抱きかかえるⅤを見た時、Ⅲは、まったくの第三者としてはじめて兄たちを見たのかもしれなかった。そこにいるのはⅢの兄ではなく、世界から見放されたかのようなあわれな少年たちだった。Ⅲは動けなかった。だれかかれらに救いの手をと、そう無意識に祈っていた。一途に。一心に。
がんがんと鐘が鳴るように雨粒が窓に打ちつける日のことだった。Ⅲの腕の中にⅣがいた。その日、Ⅴは朝から不在であり、Ⅲは起き出してこないⅣを心配して彼の自室に赴いたのだった。しわくちゃのシルクに包まってⅣはふるえていた。ひゅうひゅうはあはあと苦しい息をくりかえし、鍵盤の上に乗せるようにまるくしたてのひらで右目を覆って。
ⅢはシルクごとⅣを抱きかかえる。がたがたとふるえるⅣを、できるだけそっと。Ⅳの震えは止まらない。Ⅲの腕の中でⅣはおびえ続ける。ひ、ひ、と過剰な呼吸音の合間にⅣが口をひらく。「め、が、」みえない、とⅣは泣いた。みえない。目の前が真っ赤だ。いたい。いたいよ。たすけて。たすけて、…ブイ。
「…Ⅳ、兄様」
Ⅲはそう、Ⅳを呼ぶ。そして、ⅢはⅣのまるくかたちづくった右手をやさしく退かせてその向こうにくちびるを運んだ。きつく閉じられた、傷つけられた眼球の上にくちづけを乗せて、Ⅲはその目を開かせた…「何が見えますか、Ⅳ兄様」あなたの右目になにがみえますか。
Ⅳは答えなかった。
ⅣはⅢのことばに答えず、泣き続けた。
まるで世界でひとりきりになったような気分だった。Ⅲはひとりではなかったが、腕の中のⅣとⅢはまったくの別物のようだった。繋がれないふたりが、ひとりきりと、ひとりきりで、寄り添っているだけのように思えた。世界に見放されたような気がしていた。だれかかれらを救ってくれと願っていた。窓の外で鐘のような雨音が響いていた。Ⅴはまだ、戻らない。
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