「父上も母上も、わたしのことがお嫌いなんです」

 ジグムント・バザン・ガルディオスは鼻をぐじぐじと鳴らして呟いた。アストラエアは少年を抱き寄せる。5歳のジグムントはアストラエアの胸にすっぽりと収まった。

「父上も母上も、姉上には笑って下さるのに、わたしにはわらって下さらない」
「いいですか、ジグムント。よく聞いて」

 アストラエアは、少年の泣き顔を両の手のひらで優しく包んだ。緩くカールした黒髪は、彼の両親とも姉とも似つかない。それが、下らない中傷の種になっていることも、アストラ エアは知っていた。

「あなたは、この島の誰よりも、ホドに愛されているのよ」

 少年の青い瞳が、揺れる。ホドに?そう、ホドに。アストラエアは少年に応えた。
 だから、恐れるものなんて何もないの。あなたはホドに愛されているのだから。
 アストラエアは強く、口にした。孤独な少年の心に、深く染み渡る言葉だった。





 私の父は優れた領主であり、騎士だった。自ら戦場に出て、ホドを守った人だった。ホドを脅かすものは、全て自分の手で排除してきた。だから、父の時代のホドは平和だった。
 私は。
 戦うのが嫌いだ。傷つけるのも、傷つけられるのも嫌だ。どうして傷つけあわなければならないのだろうと何度も考えた。勝者のむなしさも敗者のかなしみも知ってなお、どうして 戦うのだろう。どうして、勝つか負けるかでしか決着をつけられないのだろう。
 私は死を恐れる。それは弱さだ。
 そう、私はとても弱い。
 今は亡きひとが、私がホドに愛されていると教えてくれた。あのひとの言葉が真実かどうか、私にはまだ分からない。
 私はホドが好きだ。
 ホドには私の家族がいる。妻がいて、娘がいて、息子がいて、騎士がいて、民がいる。私はホドで生まれて、ホドで育った。そしてホドで死んでいくだろう。
 しかしそのホドが、幾多の犠牲の上に成り立っていると、私は知っている。
 ホドを守るために、いくつの命が奪われ、投げ出され、捧げられてきただろうか。
 姉上がホドを去った理由が今ならわかる。姉上は、耐えられなかったのだろう。その真実に。私たちの愛するこの島の真実の姿は、美しい白亜だけではないということに。

 私は知っている。
 私はホドの醜さを知っている。
 だけど私は同じくらいに、
 ホドの美しさを知っている。





「よく参られた。クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ侯爵」

 私は屋敷の眼前にまで迫った男と対峙した。赤髪碧眼、キムラスカ王家の流れをくむ者の色。彼の騎士団が冠する白銀の鎧は、燃え盛る火に反射して鈍く光る。
 ホドが、燃えている。
 私のホドが、燃えている。

「道を開けよ。ガルディオス伯爵」
「ならぬ」

 目の前の男が、ホドを燃やしたのだ。
 私の中で暗い炎がぼぉっ、と灯る。この男が、…この男が!ホドは燃え盛る。私をあざ笑うように。
 剣を抜けとどこからか声が鳴る。
 ホドの栄光を侵すこの男を切り刻めと、声は鳴る。
 だが私は、溢れるような感情の奔流に任せて剣を抜くことはできなかった。

(…私は憎しみで、ガルディオスを握らない)

 ならば、何の為に宝刀を抜くのか。
 私は思い浮かべる。
 今朝も私は町に出た。採れたてのりんごと朝絞ったばかりだという牛乳をごちそうになって、いつもの場所に寝転がる。しばらくすると、ヴェルフェディリオが血相を変えて迎えに 来る。屋敷に戻ると、マリィべルが呆れ顔で出迎えて、今日が誕生日のガイラルディアは朝からはしゃいだ様子で、ユージェニーに手を引かれて、遠くからやってきた親戚たちに挨拶し に回る。
 ペールギュントは自慢の庭から丹精込めた花束をもってやってきて、エルドルラルトはわたしもお手伝いしたんです、と笑顔を見せた。ヴァンデスデルカは父譲りの生真面目な気性が すこし隠れて、こんなに賑やかなのはとても楽しいと笑って…
 それは、私のもっている全てだった。
 私の生涯の、全てだった。

「ここは通さぬ。ファブレ侯爵」

 腰のガルディオスを抜く。
 私が望むのはただひとつ。皆が泣かなくてもいいように。皆がいつものように、笑っていられるように。
 弱い私が支えきれるだけ、ホドを支えよう。抱えられるだけ、痛みを抱えよう。できるだけ多く。ホドに訪れるもの全てを、受け止められるように。

「我が名は、ジグムント・バザン・ガルディオス。ホドの主だ!」

 私の手の中で、ガルディオスに青い輝きが満ち溢れた。