「怖いのです、クリムゾン様。怖いのです、恐ろしいのです」
ユージェニー・セシルはクリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレの腕の中で咽び泣いた。
朝日が昇れば、ユージェニーは竜車に乗って異国に発つ。
ユージェニーにとって、大人たちが取り決めた婚礼は降って湧いたようなものだった。それがお前の預言だと言われれば、逆らえる筈もない。
クリムゾンとて、それは同じだった。クリムゾンはユージェニーを愛していたが、王族に連なるとはいえ一貴族の令息に過ぎない彼にできることなどなかった。
少年と少女の前に横たわる、現実。ふたりはそれを酷く恐れた。少女の白い部屋で、ふたりで身を寄せ合うことしかできなかった。
「怖いのです、クリムゾン様。怖いのです」
「…ああ、ユージェニー。哀れなユージェニー!私には、私には、どうすることもできない。…無力な私が、これ程憎いとは!」
ああ、もうすぐ日が昇る。もうすぐ、現実がふたりを迎えに来る。
そしてふたりは引き離される。
「ああ、ユージェニー、ユージェニー。私の、ユージェニー」
クリムゾンは、ユージェニーの細い体を抱く腕に力を込めた。このまま朝日が昇らなければいいのにと思った。
私にとって、世界とは恐怖そのものでした。
幼い私は、とても閉ざされた世界にいました。
外からやってきたもので、私が受け入れることができたのは、懐かしいあの方だけでした。
でも、あの方とはお互いに心を残したまま別れることになってしまいました。
私とあの方は、同志と言ってよい関係だったのでしょう。
私もあの方も、小さな子供だったのです。世界というものを恐れ、束縛を恐れ、与えられた未来に恐れ、手をつなぐことで恐怖をやり過ごそうとした、子供たちだったのです。
あの方と別れて、私はホドにやって来ました。
ホドで出会った、私の夫となるように定められた人は、困ったように笑う人でした。
ホドを愛し、ホドに愛された人でした。
その人は、自分を弱いのだと言いました。戦うのが怖いと、傷つくのが、傷つけられるのが怖いと言いました。一人で立つこともできない、弱い人間なのだと言いました。
その人は、彼を慕うひとたちに支えられて、立つということを、している人でした。
それまでの私が、やってこなかったことでした。
ふたりの子の母となってからも、こう思うのです。
私は、ジグムント様の隣に立つに相応しい女だろうか?
そしてそれは、私の生涯の指針となりました。
ジグムント様の妻として、相応しくあるように。
ふたりの子の母として、相応しくあるように。
私は、ホドの人間になることを選んだのでした。
「久し振りだ、ユージェニー。本当に、久し振りだ」
懐かしいひとが私の前にいました。そして彼が私の前にいるということは、屋敷を守るひとたちが彼に退けられたということでした。私を信じると、そう言って出て行ったあの人が、
彼の手で葬られたという、ことでした。
白銀の鎧をまとうクリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ侯爵は、16年前に別れたあの日から随分変わったように見えました。目つきは白鷲のように鋭く、目や口元には細かな
皺が増えています。ただ、爛々と光る緑色の瞳だけは、少年の頃と変わりませんでした。
「長きに渡るガルディオス伯爵夫人としての働き、御苦労だった。さあユージェニー、キムラスカへ帰ろう」
「…御冗談を。生かして帰すつもりなど、ないのでしょう?」
緑玉が、揺れる。
キムラスカに帰れるなどとは、思いませんでした。
私は、キムラスカの為に何の働きもしなかったのですから。
「…確かにそうだ。ユージェニー。私は、君を殺さなければならない」
「殺さなければ『ならない』?」
「そう、それが、君と私の預言だ。最初から、決まっていたことなんだ」
彼の表情は、汚泥のように暗く沈んでいました。
私は不思議と、自分の頬が緩むのを、感じました。
「違うわ、クリムゾン」
「…ユージェニー?」
「私を殺すのはあなた。あなたが殺すの。あなたが私を殺すことを選ぶの。決められたことですって?私は許さない、あなたがすることから逃げるのを、許さない」
彼は、私の言うことが、分からないようでした。
無理もありません。過去の私なら、同じように理解できなかったでしょう。
「私はユージェニー・セシル・ガルディオス。私はホドの人間です。忘れないで、クリムゾン。私は受け入れます。あなたのすることを、全て受け入れます」
私はすっと背筋を伸ばして彼を見つめました。彼が、私の夫を殺した剣を構えるのが見えました。
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